つたえたい - 言葉を得た重度障害者たち - (中)
「言葉届き あふれ出た…先生との出会い 扉開く」
温かい日差しが降り注いだ2009年4月30日、東京・青山の斎場で、16歳になったばかりの臼田輝の葬儀が営まれた。障害の重い子どもたちから、言葉を引き出す活動に取り組み國學院大学教授の柴田保之(54)は、輝の母真左子(53)に、ホチキスで留めた冊子を手渡した。輝が2年半前から書き記した言葉が、十ページにわたって収められていた。1993年4月に生まれた輝は、1歳の誕生日直前、マンションの五階から転落。一命はとりとめたが、ほぼ寝たきりの重い障害を負った。治したい一心で、両親は何でも試した。乗馬にはり、おきゅう…。真左子は「(輝は)心も体も壊れ、ただの塊になる」と思い詰めた。〈にんげんのことをあきらめてはいけないとおもいます。/よきひよきときに、めぐりあうことをしんじよう。〉(冊子から)
親子の転機は、私立愛育養護学校(東京都港区)への入学だった。一人一人に丁寧にかかわる教職員たち。理事長(現顧問)の津守真(87)が物語を読んでくれる時間を、輝は心待ちにするようになった。
5年生になると津守は旧約聖書を読み聞かせる。「彼は食い入るように聞き、目を離さなかった」と津守。天に届くはしごを天使が上り下りする場面ではニッコリと、ヤコブが兄を欺き父の祝福をだまし取るところではニヤリと笑った。津守は、言葉が輝の深いところに届いていると確信した。都立光明特別支援学校中学部〈世田谷区〉へ進んだ輝は柴田と出会い、内に秘めてきた言葉をあふれさせる。
〈のぞめはかならずとびらはひらかれるということがしょうめいされました。/うしなわれたかこは もうどってはきませんが/のぞみにあふれたみらいがあることが すばらしいです。/くなん それはきぼうのすいろです。〉
思うに任せない現時を受け止めてきたが故の静謐(せいひつ)さにも満ちていた。
〈てのなかに うつくしいていねんをにぎりしめて いきていこうとおもう。〉
亡くなる前のはじめはこうつづった。「たとえ しは ししのようにおそいかってくるかもしれないが/ちいさいぼくは ひとりくとうをつずけていくつもりです」度重なる入院や手術、痰にむせたり発作が起きたりと苦しみも多かった日々。死の気配も静かに見つめていた。
〈しんらいこそが ひとをいかしてくれるものです〉。こう書いた二ヶ月後、輝は転落事故の後遺症にやよる心停止で亡くなった。
真左子は言う。「津守先生との出会いで息子の緒頃は満たされ、柴田先生が、その心の声を引き出してくださった。周囲を信頼することができた輝は本当に幸せでした」(敬称略、冊子の文章は原文のまま)写真についた言葉は、(語りかける津守真さんを見つめる臼田輝さん~2005年、東京都港区で)(輝さんのアルバムを手に思い出を語る母真左子さん=東京都見た都区で)(言葉の表出支援 重度・重複障害児の教育が専門の柴田保之國學院大學教授は、わずかな動きをとらえるスイッチでパソコン上の五十音表から文字を選び、言葉を表出する装置を自作。30年前から障害児の自発的な動きを導く活動を続け、内在する言葉の存在に気付いた。これまでに臼田輝さんら200人以上から言葉を引き出している。)
(2013年2月20日東京新聞)
■東京新聞「つたえたい-言葉を得た重度障害者たち」
上)石だった私 言葉で咲く
中)言葉届き あふれ出た…
下)言葉 心で磨いた…