HOME > Text of lecture, on August 2nd in Los Angeles, and August 3rd in San Francisco.(2012)

こんにちは。今日、ここへ立っていることができること、夢のようです。いろいろな出会いがあって、今日、私はここに呼んでいただいて、みなさんと一緒に時間をすごせることに、心から感謝をしています。

私は石川県の特別支援学校の教員をしている山元加津子と申します。学校で出会った子供たちは私にとってかけがえのない大切な友達だなあと思っています。今日は子どもたちの話と後半、映画を挟んで、お友達の宮ぷーの話をさせていただこうと思います。

最初は「きいちゃん」の話です。

きいちゃんの話
きいちゃんは私が教員になったばかりのときに出会いました。きいちゃんはそのとき、高校二年生でした。きいちゃんは、小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって、訓練のために、親元を3歳のときから離れて、学校の近くの施設で生活をしていました。きいちゃんは、教室の中でいつもさびしそうでした。たいていのとき、うつむいてひとりぼっちですわっていました。そして「どうせわたしなんて」というのが口癖で、私はそのことがとても気がかりでした。

 だから、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声でとびこんできてくれたときは本当にびっくりしたのです。こんなにうれしそうなきいちゃんを私ははじめてみたのです。「どうしたの?」そうたずねると、きいちゃんは「おねえさんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」ってにこにこしながら教えてくれました。ああ、よかったって私もすごくうれしかったのです。

それなのに、それから何日かたったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、ひとりで泣いているきいちゃんをみつけたました。 涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。「おかあさんがわたしに、結婚式に出ないでほしいって言ったの。おかあさんは私のことが恥ずかしいのよ。おねえさんのことばかり考えているのよ。私なんてうまなければよかったのに」きいちゃんはやっとのことでそういうと、またはげしく泣いていたのです。

 でも、きいちゃんのおかあさんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことはなんでもしたいのだと話しておられたのです。 だからおかあさんはけっしてきいちゃんが言うように、おねえさんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、おねえさんが肩身の狭い思いをするのではないか、あるいは、きいちゃん自身がつらい思いをするのじゃないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。

私がそう考えたのには理由があります。きいちゃんと出会ったのは今から30年以上前で今とはずいぶん状況が変わっていました。そのころは、養護学校の子どもたちがどんなに素敵な絵を描いても文章を綴っても、本名をつけて発表されることはありませんでした。いつも、東京都A子とか、イニシャルでしか発表されない、そんな時代だったのです。子どもたちは生まれてそこで生きていると言うことすら隠されている時代でした。私は自分が自分であることを隠さなければならないのはおかしいと思いましたが、先輩は、それは家族の方が悪いのではなくて、社会がそうなんだよと言いました。

 きいちゃんはとても悲しそうだったし、「うまなければよかったのに・・」ときいちゃんに言われたおかあさんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもおかあさんの悲しい気持ちにも、私はなにをすることもできませんでした。ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントをつくろうよ」と言いました。

 日本の石川県の金沢の山の方に和紙をつくっている二俣というところがあります。そこで、布を染める方法をならってきました。さらしという真っ白な布を買ってきて、きいちゃんといっしょにそれを夕日の色に染めました。 そしてその布で、ゆかたをぬってプレゼントすることにしたのです。 でも、本当を言うと、私はきいちゃんにゆかたをぬうことはとてもむずかしいことだろうと思っていたのです。きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなかもっていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人といっしょにすることが多かったのです。ミシンもあるし、いっしょに針をもってぬってもいいのだからと私は考えていました。

 でも、きいちゃんは「ぜったいにひとりでぬう」と言いはりました。まちがって指を針でさして、練習用の布が血で真っ赤になっても、「おねえちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」ってひとりでぬうことをやめようとはしませんでした。

私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがどんどん、どんどんじょうずになっていきました。 学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっとゆかたをぬっていました。体をこわしてしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんはゆかたをぬい続けました。 そしてとうとう結婚式の10日前にゆかたはできあがったのです。 宅急便でおねえさんのところへゆかたを送ってから二日ほどたっていたころだったと思います。きいちゃんのおねえさんから私のところに電話がかかってきたのです。おどろいたことに、きいちゃんのおねえさんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。けれどきいちゃんのおかあさんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。おかあさんに電話をしたら、お母さんは「あのこの姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」と言って下さったので結婚式に出ることにしました。

結婚式のおねえさんはとてもきれいでした。そして幸せそうでした。

それを見て、とてもうれしかったけれど、でも気になることがありました。

結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんをじろじろ見ていたり、なにかひそひそ話しているのが私たちの耳にも聞こえてきました。

「どうしてあんな子つれてきたんかね」

「だれがこれから面倒をみていくことになるんだろう」

「赤ちゃんが生まれたら障がいがある子どもがうまれるじゃないだろうか?」

きいちゃんはすっかり元気をなくしてしまい、おいしそうな御馳走も食べたくないと言いました。

(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)とそんなことをちょうど考えていたときでした。お色直しをして扉から出てきたおねえさんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣をきていたのです。

浴衣はおねえさんにとてもよく似合っていました。

きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。

おねえさんはお相手の方とマイクの前にたたれて、私たちを前に呼んでくださいました。そしてこんなふうに話し出されました。

「みなさんこのゆかたを見てください。このゆかたは私の妹がぬってくれたのです。

妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。

家で父や母とくらしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。

それなのに、こんなりっぱなゆかたをぬってくれたのです。私はこの浴衣が届いたときに涙が止まりませんでした。

妹はどんな思いをして、どんなに一生懸命この浴衣を縫ってくれただろうと思いました。私は妹を新しい家族に知ってもらいたいと思いました。妹は私のほこりです」

そのとき、式場のどこからともなく拍手が起こり、式場中が、大きな拍手でいっぱいになりました。

そのときのはずかしそうだけれど、誇らしげでうれしそうなきいちゃんの顔を私はいまもはっきりと覚えています。

私はそのとき、とても感激しました。おねえさんはなんてすばらしい人なのでしょう。そして、おねえさんの気持ちを動かした、きいちゃんのがんばりはなんて素敵なのでしょう。

きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。

もし、名前を隠したり、かくれたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなにさびしいものになったでしょうか?

 お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。でも私はなんにもしていませんと言うと、お母さんは、「あの子が、お母さん、生んでくれてありがとう。私幸せです」と話してくれたと泣きながらおっしゃいました。

お母さんは、きいちゃんが、障害を持ったときから、きいちゃんの障害は自分のせいだと思ってずっとご自分を責め続けてこられたのだそうです。

もし、もう一時間でも早く大きな病院に連れて行っていたら、あの子に障害が残ることはなかったのじゃないか、あの子の障害は自分のせいだと思ってずっと自分を責めていたと話しておられました。

 きいちゃんは結婚式の後、とても明るい女の子になりました。これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいといいました。そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。

きいちゃんだけでなく、こどもたちはいつも、みんな素敵で大切な存在なんだと言うことを教えてくれるなあと思います。



つぎに雪絵ちゃんの話をします。

雪絵ちゃんの話

大好きな雪絵ちゃんという友達がいました。病弱養護学校で出会った雪絵ちゃんは、多発性硬化症、別名MSという病気を持っていました。脳の中のいろいろな場所が固くなって、目が見えにくくなったり、手足が動かしにくくなるという病気でした。その症状はリハビリによって、よくなるけれど、でも、再発の前の状態にもどることはなかなか難しいということで、私は雪絵ちゃんが再発すると、どんなに不安だろうと心配でした。

でも、雪絵ちゃんは口癖のように言いました。「私はMSになってよかったよ。MSになったからこそ、分かったことがいっぱいあるし、MSになったからこそ、今周りにいる人に出会えたよ。かっこちゃんに出会えたよと私のことも行ってくれました。もし、MSでなかったら、違ういろいろな人、素敵な人にも出会えたと思うけれど、私は今、周りにいる人がいい、かっこちゃんがいい、だからこれでよかった。目が見えなくなっても手足が動かなくなっても、人工呼吸器をつけないと息ができなくなったとしても、決してMSであることを後悔しないよ。MSの雪絵丸ごと愛していくよ」と言い切る雪絵ちゃんはなんて素敵だろうと思いました。

そんな雪絵ちゃんがあるとき「かっこちゃん疲れちゃった」と言いました。そのときは体のほとんどが動かなくなっていたのです。私は雪絵ちゃんがどんなにつらいかわかっていたので、どうしようと思いました。そんな私の様子を感じた雪絵ちゃんが「かっこちゃん、まさか私が死にたいとでも思ったと思った? そんなはずないでしょう。ただ動けないからちょっと疲れちゃっただけ。何かうれしくなるような話をしてほしい」と言いました。

「なあんだ、そうだったの。まかしておいて、私、雪絵ちゃんにお話ししたいこといっぱいあるんだ」と言いました。そのときお話ししたのが、映画1/4の奇跡の主題となっています。

その頃、テレビで見たお話がとても印象に残って、そのことを話したのですが、科学番組で、遺伝子についての放映でした。あるアフリカの村がマラリアという病気で絶滅しそうになるのです。でも、絶滅しませんでした。なぜなら、マラリアにかからない人がいて、その人がいることで絶滅から救われたのです。どんな人がマラリアにかからないかということを調べたら、赤血球が草を刈る鎌状の形をしている鎌状赤血球を持っている人がマラリアにかからないということがわかりました。

お医者さんたちは、今度は鎌状赤血球の人の兄弟を集めて調べたところあることがわかりました。その人たちは三つのグループに分けることができました。一つ目は鎌状赤血球を持っていて、重い障害がある人たちが四分の一。二つ目のグループは鎌状赤血球を持っていて、障害のない人で、その人たちは四分の二の人たち。そして最後は、通常の赤血球で、障害もない人たちが四分の一。この三つに分けられることがわかりました。マラリアが流行ると、三番目のグループの人は鎌状赤血球でないので、亡くなってしまいます。

テレビでは、鎌状赤血球を持っていて、障害のない四分の二の人たちがいたから、村は絶滅から救われたと言っていました。けれども、残りの鎌状赤血球を持っていて、障害のある人たちはとても大きな役割をしている。もし村に障害のある人はいらないんだという考えがあったとしたら、いずれ鎌状赤血球を持った人はいなくなってしまって、この村はマラリアが流行ったときに絶滅していたであろう。そう考えると、この村を救ったのは鎌状赤血球を持っている障害のある四分の一の人たちであると言えるのではないか。そして、こんなふうにもテレビでは言っておられました。今、私たちが明日へ向かって元気に歩いていくことができるのは、過去に病気や障害を持って、そのために苦しみながらも生きていてくれた人がいるおかげである。今も病気や障害を持ってそのために苦しんでおられる方がいます。その人たちがいてくださるから、私たちの未来の子供たちが元気に明日へ向かっていくことができるのです。社会は障害や病気を持つ人を含んでいかなければならない。それでなければ私たちの未来はないのです。
そんなお話を雪絵ちゃんにしたら、雪絵ちゃんは、とても喜んでくれて、「私が病気であることにはそんなに大きな意味があったんだね。うれしいな」と言いました。そして、「かっこちゃん、このことは私たちだけが知っていてはもったいないよ。みんなが大切なんだということが科学的にも証明された本当のことなんだということを世界中の人が当たり前に知っている世の中にかっこちゃんがしてほしい。お願い」と言うのです。どうしてそんなこと、わたしができる?できっこないよと言うのに、雪絵ちゃんはどうしても、してほしいと言いました。私は雪絵ちゃんがあまりに一生懸命なので、「わかったよ」と約束してしまったのです。ところが、雪絵ちゃんは亡くなりました。それは雪絵ちゃんの遺言になりました。私は何の力もないのにどうしたらいいんだろうと思ったけれど、不思議なことに、映画にしてくださる方がいて、1/4の奇跡という映画は、自主上映を重ねて、日本では1400か所近く12万人の方が見てくださり、世界中のいろいろな国でも上映していただいています。アメリカでも、テレビ放映をしていただきました。雪絵ちゃんの思いが、今、現実になろうとしているのかなと思いました。
またロサンゼルスの新原先生は鎌状赤血球による貧血症の世界的な権威のお医者さんです。この映画を観てくださって、苦しい貧血症の人たちの苦しみを少しでも少なくしていくということが僕たちの仕事だが、本人達に、苦しみには大きな意味があるんだということを伝えられることは嬉しいことですと言ってくださいました。

わたしは、病気や障害を持っている人たちが、私たちの命を救ってくれているということを決して忘れてはいけないと思うのです。社会や国が、病気や障害をもっている人たち、あるいは弱者と呼ばれている人たちをささえていく必要があると思います。

それでは、次に「大好きはうれしいんだ」ということについてお話させていただきたいです。しゅうくんという男の子が私にある日聞いてくれました。「かっこちゃん、大好きはうれしい?」「そうだね、大好きは嬉しいね」というと「嫌いは悲しい?」とまた聞くのです。「そうだね、嫌いは悲しいね」というと、しゅうくんは、「かっこちゃん、大好きはどうしてうれしいの? 嫌いなどうして悲しいの?」私はそのとき、その答えをみつけられなくて、どうしてだろうねと話したことを覚えています。


かおりちゃんのこと
かおりちゃんという女の子と出会ったのはかおりちゃんが中学2年生のときでした。かおりちゃんは笑ったり泣いたりすることがほとんどなくて、目もあわないお子さんでした。かおりちゃんは話し言葉としての言葉はもっていませんでした。私は何もわかっていなくて、口の機能という面では、障害があるわけではないのだから、お話したいのはもったいないと思ってしまって、かおりちゃんに向かって「あーって言って」「いーと言って」と言いました。

かおりちゃんは、そんな練習はこれまでにもう千回もしたよというふうにフウとため息をついて、でも、「あ」とか「い」の形に口を開いてくれたけれど、息がもれるだけで声になることはありませんでした。そして、その練習を続けることがなんだか私たちの関係を悪くしてしまう気がして練習をやめてしまったのでした。

お母さんは連絡帳で「この子に障害があると分かったときから、私は一度でいいから私のことをママと呼んでくれたらとそればかり思っていました。けれど、どの本を読んでも、小学生のときに言葉が出なかったらそれ以降に言葉が出ることはないと書いてありました。かおりはもう中学2年生です。もう言葉が出ることはないでしょう。繁華街で迷子になっても誰をさがすわけでもなく、スクランブル交差点の真ん中でひとりぽつんと立っているこの子を見たときに、私はもう、この子がママと私を呼んでくれるような日は決してこないのだということがはっきりわかりました。私は今ではもう、この子にお話をしてほしいなんて思っていないんです。お話をする練習をすることはこの子を傷つけるだけだし、先生のこともがっかりさせてしまうから、そんな練習はもう絶対になさらないでください」とお母さんはおっしゃいました」お母さんはいろいろな思いの中でかおりちゃんを育ててこられたのですね。

私はかおりちゃんとすごしているうちにかおりちゃんが可愛くてならなくて、かおりちゃんも私のことが好きになってくれたのじゃないかと思うのですが、いつもそばにいて、私をじっと見ていてくれるようになりました。そんなころ、かおりちゃんは私のまねをよくするようになりました。私はへんてこなくせがいっぱいあって、髪の毛をくるくると束ねてねじるという癖がありました。気が付くとかおりちゃんも同じことをしていました。給食のロールパンの皮を口にくわえて、そのまますっとむいてたべるという癖がありました。気が付くとかおりちゃんも口からパンの皮をさげていて、おもしろいことをしているなあと思ったら、みんなが「かっこちゃんのまねだよ」って言うのです。

そんなある日、教卓の上に置いてあった分厚い本が何かの拍子でドサッと下に落ちました。かおりちゃんがびっくりした顔をしたので、私はかおりちゃんの顔を見て「あーあー」と言いました。かおりちゃんは私の顔をじーっと見ました。そしてゆっくりと口を開いて「あーあー」って言ったのです。「かおりちゃんがしゃべった、かおりちゃんがしゃべった!」私はうれしくなってそのあたりをくるくる回って、でも欲張りだから、すぐにかおりちゃん「いーって言って」と言いました。そうしたら、またかおりちゃんは私の顔をじーっと見て「いー」って言ってくれたのです。それで、私はまた「ね、かおりちゃん、ママって言って。まーまって言って」と言いました。かおりちゃんは私の顔をじーっと見て、ゆっくりと「まーま」って言ってくれたのです。

私はこれはお母さんにお知らせしなくちゃと思いました。でも、電話や連絡帳ではお母さんが信じてくださらないかもしれないと思いました。会ってお伝えしようと思いました。それでお母さんに「今日お話ししたいことがあるので、出かけてもいいですか?」と電話をかけました。お母さんは夕飯まで用意して待っていてくださいました。楽しくおしゃべりをしていたら「ところで、今日、かつこ先生は何をしにこられたんですか?」とおっしゃいました。

「お母さん、今日、かおりちゃんが、おしゃべりをしてくれたんですよ」と話したとたん、お母さんの顔がさっと険しく変わりました。「お願いしましたよね。私はかおりがしゃべってほしいなんてもうこれっぽっちも思っていないのです。話す練習をすることはあの子を苦しめるだけですから、もう決してしないでください」

「待ってください、本当なんです。かおりちゃん、お母さんを呼んで、ママと呼んで」かおりちゃんはゆっくりお母さんの方を向いて、じーっとお母さんの顔を見つめて、甘えるようにお母さんを呼びました。「まーま」。お母さんの目にみるみる涙がたまって、涙がぽろぽろこぼれて、「かおり、ありがとう。かおり、ありがとう」とかおりちゃんを長い間抱きしめておられました。そして、私に「先生がかおりをかわいいと思ってくださる気持ち、かおりが先生を大好きだという気持ちが中学校2年生というこの時期に奇跡を起こしました」と言ってくださいました。

私は「奇跡」というあまりに大きな言葉にすごく驚きました。けれど、(ああそうだったのか)と思ったことがありました。私は最初にかおりちゃんに会ったばかりのときに、「あーと言って」「いーと言って」と言ってもかおりちゃんはおしゃべりしてくれなかったのに、今それができたのかがわからなかったのです。人が人に思いを伝えるということはそんな簡単なことではないのですね。お互いが好き同士になって、そして、相手が私の思いを聞きたがってるとか、自分の思いを聞いてほしいとかそういう関係にならないと人は思いを伝えられないのじゃないかなと思いました。

そのときに思い出したのがしゅうくんの言葉でした、「大好きはどうしてうれしいの?」私たちはいつから大好きがうれしくなったのでしょう。小学校の時でしょうか?幼稚園のときでしょうか? いいえ、赤ちゃんのときから私たちは大好きはうれしかったと思います。

「大好きはうれしい」というのは、私たちがまだたった一個の受精卵だったときから神様が私たちにくださったプレゼントのように思うのです。
大好きがうれしいということが、言葉を覚えたり、あるいは、手を広げて待っていてくれるお母さんやお父さんのところに行きたいという思いではいはいができるようになったり、歩けたりできるようになったのじゃないかなあと思います。

これは他の子どもたちもいつも教えてくれることです。「大好き」という思いがあれば、私たちはなかなか勇気が出なかったことも乗り越えて行けるし、また、生きる勇気がわいてくるのだと思います。


意思伝達のこと

映画を観てくださってありがとうございます。みなさんとこうして映画を見ることができて、本当にうれしく、感激しています。宮ぷーのお話をさせていただく前に、少し私の話をさせてください。私は、いろんなことが、あまりちゃんとできません。たとえば、いつもすぐに物をなくしてしまいます。お財布や携帯電話、鍵などもすぐになくすし、もう少し大きい鞄もなくすし、車だってなくしてしまって、本当にいったいどうしてこうなんだろうと思うこともよくあります。それから、私は方向がわからなくて、いつも道に迷います。目的地にちゃんと辿り着くことが難しいです。今勤めている学校は二年半前から勤めていますが、ときどき、道に迷ってなかなかつかないこともあります。

そんな私などで、とても、日本各地で呼んでいただく講演会に一人で出かけられるはずもないのです。そんな私の活動をいつも支えてくださっているのが、今日も仲間と一緒にアメリカまで連れてきてくださった、小林さんという方です。小林さんはいつも、電車のチケットを送ってくださって、降りる駅で、降りてください。そうしたら、私がホームまで迎えに行くので、そこで動かないように待っていてくださいと言ってくださるので、私はいろいろなところに出かけられます。けれど、小林さんと私が住んでいるところはとても遠く、小林さんは東京の近くの静岡県、私は日本海側の金沢というところに住んでいます。とても私の住んでいる場所での講演会にまで来ていただくわけにはいきませんでした。そこで、金沢での講演会はできませんとみなさんにお話していたんですが、そんなときに、それなら、僕が目的地まで連れて行ってあげようと言って私の活動をいつも支えてくださったのが、宮田俊也さん、宮ぷーでした。

宮田さんは、私が以前勤めていた学校の同僚で、子供たちから宮ぷーという愛称でとても人気のある方でした。その宮ぷーが映画にもありましたように、3年半前の2月20日に脳幹出血という病気で倒れました。

私はそのときは知らなかったのですが、脳幹出血という病気は、脳出血の中でも一番怖い病気だそうです。脳幹というところは、息をしたり、心臓や内臓を動かすなど、まさに生きる部分をつかさどる病気で、統計的には、発症した方の9割が亡くなり、残った一割のまた、八割か9割の方が意識がもどらないままというような統計があるのだそうです。宮ぷーも倒れたときは、瞳孔がひらきっぱなしで、舌が口から出て、息もしていなくて、人工呼吸器をつけていました。内臓もどこも動いてなくて、ウンチやおしっこが出だしたのは半月以上たったころで、最初は下血と吐血が続いていました。

あと3時間の命だということでした。そのあとは3日の命ということでした。お医者さまからも、「もし助かっても、一生植物状態で、体のどこも動かない四肢麻痺になります」というお話がありました。私がそのときに、まず思ったのは、宮ぷーは意識がないと言われていても、しっかりと聞いているし、わかっているんだということでした。私が今まで出会った子どもたちが教えてくれたのは、どんなに重い障害があるお子さんも、たとえ、植物状態だと言われていたとしても、誰もが、聞こえていて、わかっているんだということだったのです。

たとえば、私は、出会ったお子さんの中には無脳症と言われているお子さんがおられました。脳がまったくない方は生きていくことができないので、おそらくは、脳幹や延髄とかはあるけれど、大脳新皮質の部分が生まれつきないお子さんだったのだと思います。お医者さんである園長先生は、この子は見えないし、聞こえないし、わかりませんよと言われました。

それでも、園長先生は「この子は教育の外にある子どもさんだけど、でも、一緒に時間をすごしてみてね」と言ってくださったのです。

私になにができるかわからなかったです。けれども、ベッドのそばに行き、手をさわり、話しかけると可愛くて、思わず身体を起こして、大好き大好きと言って揺らしたり、一緒に歌を歌ったりもしました。その頃、私は身体を起こすことがどれだけ大切なことなのかということを少しも知らないときだったのですが、でも、無意識にしたことですが、それが、とてもよかったのだということがあとでわかりました。

その頃は病気の人は安静が大切。横にしておくことが大切と思われていたのです。

けれど、私たちの身体の仕組みは本当に不思議ですね。横になれば安静のスイッチがONになるけれど、健康な人も内臓もそれから意識などもいろいろな機能が失われていく。ところが縦に起こすと、損傷を受けた部分は、回復のスイッチがONになって、回復をしようとするのです。健康な方が、寝かせっぱなしになることで、障害をもっていうことを廃用症候群と言います。

無脳症と言われていたお子さんを抱き起こして揺らして可愛くてたまらなくて、大好き大好きと言っていたある日、看護師さんが、私に「たいへんなことがわかった」と教えてくださいました。なんだろうと思ったら、そのお子さんは、ほとんど自分で動くことができないお子さんばかりの部屋にいたのですが、そのお子さんが、このごろ手足をばたばた動かすことがあることに気がついたのだそうです。そしてそのあと、必ず私が現れるということにも気がつかれたそうです。「この子はかつこさんの足音を聞き分けている。まさかと思ったけれど、毎日そうだから、絶対に間違いないと思う。この子はあなたを待っている。あなたが来るのを喜んでいる」と言ってくださったのです。

聞こえないはず、見えないはず、わからないはずのそのお子さんが、私が毎日来るのを知り、私が来るのを待ち遠しく思って、来たら喜んで手足を動かしてくれている…それを聞いたときに、私は声をあげて泣きました。ずっと静かにすごしていて、何も聞こえないと思われていて、話しかけられることもほとんどなかったそのお子さんが、実は深い思いをもっていたということがわかったからです。そして、私は、そのお子さんにとって、特別な存在と思ってくれたのだと思ったからです。

やがて、もっといろいろなことがわかってきました。私は手遊びをよくしました。手遊びの歌を歌ったのですが、一番敏感と思われた顔をつかって歌を歌いました。一本橋こちょこちょ、二本橋こちょこちょ。階段上って、こちょこちょこちょ。くすぐると、そのお子さんが笑いました。うれしくて、お医者さんにお話すると、反射で笑うことはあるだろうとのことでした。けれど、その次の日に、「一本橋こちょこちょ、二本橋こちょこちょ。階段上って…」そこで歌をやめてみたら、そのお子さんはしばらく静かでしたが、待ちきれないように、私がくすぐる前にうわーっと笑ってくれたのです。目の前のお子さんは、次を予測して、それが楽しくて笑ってくれたのだと思いました。

 

それだけでなく、「可愛い」と思わず言ったり「大好き」というたびに、とてもうれしい顔をしてくれたし、他のみんなが遠足に出かけた日に、「病室が静かですね」と言ったとき、看護師さんが「みんな遠足に出かけて楽しんでいるだろうね」とおっしゃったときに、すごくさびしそうな悲しそうな顔をしたのです。

ずっとこの部屋から生まれてから出たことのないお子さんが、遠足というものを知っているというのも驚きでした。

私は他のお子さんともすごしながら、子どもたちは実は生まれながらに、私たちが使っている言葉をみんなわかっているのだと思いました。見たことのないはずの花や動物のことも知っている、宇宙とつながるようにして知っているんだとそんな不思議なことを思いました。そして、どのお子さんも身体を起こして揺らしたり歯磨きをしたり、話しかけることで、みんな多かれ少なかれ、回復をしてくれていました。私は園長先生が間違っておられたというふうに思っているわけではないのです。長く植物状態にいる方は、回復しないし、思いはもっていないのだというのが、これまでの大きな常識だったのです。

でも、その常識は方法を行うことで変わっていくのだと感じていました。宮ぷーが倒れたときに、思ったのは、どんなに重い障害を持っていてもみんな思いをもっていて、わかっているということでした。だから、宮ぷーは一生植物状態ですと先生がおっしゃったときに、宮ぷーがそれを聞いてどんなに不安だろうということでした。そして、そのとき、なぜかわき上がるように「だいじょうぶ」と思えたので、先生に、「だいじょうぶです」と言いました。先生は私のことを心配してくださって「僕の言っていることがわかる?」と言われました。先生はたくさんの症例を観てこられて、そして、宮ぷーのような状態の方がどんなふうな経過をたどっていくかということをよくご存じで、そして、私たちに宮ぷーの様子を伝える義務がおありだったのです。だから、先生は「植物状態で、一生四肢麻痺です」と言われました。私は「だいじょうぶだから安心してください」と言いました。

そんな重篤な中、病院のスタッフのみなさんが決してあきらめずに命をつないでくださいました。それから、多くの方の応援、そして、宮ぷーの生きる力によって、命の危機を脱することができました。

ところが、映画のように、宮ぷーには病院についていることのできる家族がいませんでした。妹さんはおられるのですが、赤ちゃんを産んだばかりだったのです。それで、妹さんが赤ちゃんを連れて昼間病院につき、私の学校での仕事が終わったあと、病院へ通う毎日が始まりました。

私たちの前には大きなこれまでの常識の壁がありました。誰が悪いとかではなく、今までの統計とか常識があって、こんなに大きな脳幹の出血をした宮ぷーは治っては行かないのだという、大方の味方があったのです。

けれど、今までお話させていただいたように、それは子どもたちが教えてくれたこととは違いました。宮ぷーは全部わかっているし、方法によっては治っていくのだということを私は思って、それを続けていこうと思いました。

まず起こすために宮ぷーの身体にあった車いすをつくってもらおうと考えました。けれども、お医者さんは「一生ベッドの上ですごしてどこへも行かない方ですから車いすは必要ありません」と言われました。

けれども、私が思っていることはそうではないのです。何度も何度もくり返しお願いして、トイレの前で先生をまちぶせしてまで、お願いしたら、先生はそんなに言うのなら、障害者手帳を使って国の補助で、宮ぷーの身体にあった座位保持装置を作りましょうと、りっぱな車いすを申請してくださいました。

それでも、車いすに載せること、起こすことは、脳幹出血で、身体がぐにゃぐにゃになっている宮ぷーの場合、簡単ではありませんでした。まして、誰よりも力のない私には難しいと思われました。

特別支援学校の教員になって、実習で習った方法では、小さな子どもたちも車いすに一人で乗せることはできませんでした。けれども、あきらめてしまったらそれでおしまいです。ユーチューブを見たり、自分で工夫することで、当時88キロもあった宮ぷーを簡単に起こしたり、車いすに乗せたりする方法をみつけることができました。

「おしっこの管は一生取れることがありません。口から食べることができるようにもなりません」というお話がありました。それが、今までの統計であり、常識だったのです。

でもそれは、方法を行っていないときの数値だと私は思います。お腹に低周波装置をあてたり、マッサージを行ったりして、それがよかったのか、それとも起こしていたことで、脳の回復が進んだことがよかったのかわからないのですが、おしっこが管がなくても出るようになりました。

それでも、自分のしたいときにできるようにはなりませんというお話がありました。それが、間違っているというのではなく、そういう統計や常識があったからです。

でも、一日に10分だけ尿器をあてて、おしっこのことを考えるようにしよう。でなくてもいいから、考えようねと、それを続けているうちに、今ではしたくなったら、尿器でおしっこがとれるようになりました。今は、もう少し我慢ができるようになれば、トイレでおしっこができるようにと思っています。

それから、もうひとつ。宮ぷーは思いを伝えられるようにはならないだろうという常識もありました。けれど、それもまた子どもたちが教えてくれていることとは違いました。あきらめなければ、必ず方法は見つかるはずということを30年のあいだ子どもたちは教えてくれていたからです。

宮ぷーが倒れたときも、すぐにその方法を探そうとしました。けれども、最初はなかなか方法を見つけることができませんでした。伝えたい思いがあって、伝えられないというのは、本当につらいことだと思います。そして、思いが伝えられるようになったとき、宮ぷーは画像に映っていたレッツチャットという意思伝達装置を使って「生きることをとりもどした」と表現しています。

最初に考えたのは、まず宮ぷーに自分でどこか一カ所でいいから、自分で動かせる場所を見つけたいということでした。一カ所でも動かせたら、そこで返事ができます。たとえば、まばたきを一回すれば、イエス、二回すればノーとか、右に黒目を動かせばイエス、左ならノーというふうに決められるからです。でも、私たちの思いはイエスとノーだけで伝えられるものではありません

「今日、食べたい物は何?」「あなたの名前はなんですか?」というようなことをイエスとノーで伝えることは簡単ではありません。そこで用いたのは「あかさたなスキャン」という方法です。少しやってみたいと思います。小林さん、お手伝い願えますか?

今から小林さんに好きな動物を聞いてみたいと思います。
好きな動物の名前の一番最初の言葉を思い浮かべてください。それがあかさたなの何の業にあるか、私があかさたなと言っていきますので、その言葉がある業のところで手をあげて合図をしてください。

あかさたな。ナ行ですね。それでは下におります。なにぬね 「ね」最初の言葉は「ね」でいいですか?それでは二つ目の文字にうつります。あか、カ行ですね。それでは下におります。かきくけこ 「こ」ですか? ねこ?ねこが好きなのですか?

ありがとうございます。これが「あかさたなスキャン」です。宮ぷーは6ヶ月過ぎてから、自分で首が動かせるようになりました。一般的に言われていることは、6ヶ月までは回復することがあっても、それ以降は回復することがむずかしいということで、日本の医療の国からのリハビリの補助も、6ヶ月をすぎたところで打ち切られています。

でも、宮ぷーが目に見えた回復を始めたのはこの6ヶ月をすぎたときからでした。ここでも、常識と言われているものとの違いのようなものを感じています。宮ぷーは動き出した首で返事をしてくれるようになりました。

この「あかさたなスキャン」はすごく簡単な方法なのです。でも、この方法は残念ながら広まっていません。それから、宮ぷーが映画で使っていたレッツチャットという機械は、このあかさたなスキャンを機械がしてくれるもので、宮ぷーは手をスイッチを押すことで思いを伝えています。

宮ぷーは自分の毎日を知ってほしいと言いました。そして、誰もが気持ちを伝え合えるようになってほしいと言います。私も講演会で宮ぷーの映像を見ていただきながら、意思を伝える方法はすごくたくさんあることをお話しさせていただくようになりました。

ところがそのたびに、意思伝達装置のことで、お尋ねがあるのです。「うちに9年間気持ちをつたられていない弟がいます。何か方法はありますか?」「主人は20年前に倒れて、奇跡を起こそうと思い続けてきたけれど、まだおしゃべりができません」と言われました。

松江でお会いしたご夫婦は、おばあちゃんが「主人がおしゃべりできなくなったときに、それでは思いを伝えるには書くしかないと思って、ペンを持たせるけれど震える字で読むことはできなくて今も思いを伝えられずにいます」と言われました。

ところが、「他にはどんな方法でコミュニケーションをとっておられますか?」とお尋ねしたら、「嫌なときは手を振って嫌という気持ちを表しています」とおっしゃいました。「え!?手が動くのですか?」と言うとそうだとおっしゃるのです。

そして、「おばあちゃんがおっしゃることはわかっておられるようですか?」とお尋ねすると「はい、こちらの言うことは全部わかっていて、落語を聞いて笑います」とおっしゃいました。そこで、レッツチャットより簡単な機械、トーキングエイドを紹介しました。

この装置は手が震えて何度もキーボードを押してしまっても一回にカウントして思いを綴る機械です。おじいちゃんは最初のときから、もうおばあちゃんの名前を呼んでありがとうと綴られたそうです。私はうれしかったです。うれしかったけど、悲しくて悔しかったです。

なぜなら、どうして、ただ知らないというだけで、こんなにも長い間思いを伝えられずにいなくてはならなかったのでしょうか? もし自分だったら、もし母親だったらと思うと涙が出ます 。私は知らないというだけで、ただそれだけのためだけで、一分だって一秒だって思いを伝えられないのは嫌なのです。

いったい誰が悪いのだろうと私は考えました。お医者さんや、看護師さんだろうかと思いました。けれどもそうではありません。だって、お医者さんや看護師さんは命を助けてくださるのに、本当に一生懸命です。今も病院にいる宮ぷーの命をささえてくださっています。そんなお医者さんや看護師さんが悪いはずありません。

それでは、介護をしている方でしょうか? そんなはずがありませんよね。だって、知らないことは、調べられるはずがありません。それだったら、責任がある人、悪い人がいるとしたら、それは知っていて伝えない人だと思います。そして、それは私だと思いました。

私はずっと特別支援学校に勤めています。だから、いろいろな方法を知っていました。意思伝達のことだけでなく、回復する方法もたくさん子どもたちが伝えてくれていました。

でも、そのことを多くの方にこれまで伝えてきませんでした。宮ぷーさえよかったらそれでよかったのだろうかと思ったとき、それは違うと思いました。そして、立ち上げたのが、白雪姫プロジェクトです。白雪姫は王子様や7人のこびとさんたちによって、目覚めることができました。だから、あふれるようなみなさんの愛で、多くの方に、回復する方法があるんだということ、そして、思いを伝える方法があるんだということを伝えたいと思っています。白雪姫プロジェクトでは、おはなしノート、このようなものですが、これが、フリーでダウンロードできます。あいうえおの仕組みがわかりにくい方も、イラストで思いを伝えられるようにとつくったものです。また、白雪姫プロジェクトでは介護法の動画も載せさえていただいています。ちょっとやってみたいと思います。どなたかお手伝いいただけますか?

ありがとうございました。
実際、回復できると可能性があるということや、意思伝達の方法や意思伝達装置の存在が知られていないのです。講演会で声をかけてくださった方は、今、どの方も様々な方法で思いを伝えられるようになっています。

今、世界中には、たくさんの寝たきりと言われる方がいます。そして、伝えたくても思いを伝えられない人はたくさんいます。意識があっても、意識があると周りに気が付いてもらえない人、それからその方法が広まっていないために思いを伝えられない人、回復をあきらめてしまっている人たちがたくさんいます。どうしたらいのだろうと思いました。そしてそれは、知っている人が伝えなくちゃならない。知っている人には責任がある。伝える責任があると思いました。すべての人が思いを伝えられるようになる、回復の可能性を信じられるようになる。それが、今の私の夢です。
だってこれは宮ぷーだけの物語ではないのです。もし、みなさんがもし明日倒れるようなことがあったとしたら、寝たきりにおかれたり、思いを伝える方法を手にすることができない可能性が大きいのです。だって、それが今の常識だからです。常識は変えていけるのだと思います。自分の話としてみなさんが取り組んですすめてくださったら、きっと多くのことが変わっていけると信じています。ぜひ、みなさんお力をお貸しください。お願いします。

先ほどお話させていただいた1/4の奇跡のお話のように、今、障害や病気をもっておられる人がおられるからこそ、私たちの未来の子供たちは明日に向かって元気に歩いて行けるのです。
大好きという思いはとてもうれしく、そして大切です。私たちはあるときは、子供たちと向き合うとき、誰かと出会うとき、大好きなうれしいんだという思いを忘れずにいられたらなあと思います。今日は、本当にありがとうございます。


 

// Members of translation team
Alba Okada
Anthony Davis
Barry Henson
Chad Tsuyuki
Eiko Hamada-Ano
Fukiko Kai
Kaho Koinuma
Keiko Sugimoto
Masayo Koinuma
Mikko Arimoto Henson
Miyuki Kanazawa
Rika Davis
Satoshi Sone
Satoshi Ueda
Tony Bevan
Yukiko Ozaki
Yoko Ano